最近、よく、「やさしいってなんだ?」と考えている。
というのは、わたしは、「人に過剰にやさしくしてしまう」ことをずっと悩んでいるのだが、その「やさしい」は、本当に「やさしい」のか?
自分が使っている言葉に、違和感がずっとあった。
わたしが言っていた、「人に過剰にやさしくしてしまう」状態というのは、つまり、目の前にいる人がしてほしそうなことをし、かけてほしそうな言葉を、無意識に、言ってしまうということだ。
精神が、すぐに、目の前の人と合体してしまう。
「普通に励ます」の範囲を超えて、自分が疲弊するくらい、話を聞いてしまったりする。それは学生のころからで、自分の近くにはいつも精神状態の不安定な子がいて、とにかく励ましていた記憶がある。
目の前の人が、不機嫌だったり、元気がなさそうなのが、ほんとうに耐えられない。
人のことを励ましているときは、
精神が、目の前の人と合体しているので、ほんとうに悲しんでいるし、心から励ましている。
もはや、わたしは、あなたになっている。
でも、その「やさしい」は、いつも長く続かない。
途中で、自分が「もう、むりです! 限界です!」と、鬱状態にはいってしまう。
これは、果たして、ほんとうに「やさしい」のだろうか?
目の前の人の立場になって考えてみる。
目の前の人は、わたしがたくさん励ましてきたら、嬉しいだろう。
自分の悲しみを同じ温度で悲しんでくれて、自分の悩みを同じ温度で悩んでくれるなんて、場合によっては、救われたと思ったり、この人がいないと生きていけないというような依存状態になったりするのではないだろうか。
一方、わたしは、精神が目の前の人と合体しているので、かけてほしいであろう言葉が分かるからその言葉をかけ、してほしいであろう行動も分かるから、その行動をしてしまっている状態である。
「仕方なくやっている」とか「本心ではない」とかでは、ない。
なぜなら、わたしは今、あなただから。
あなたの悲しみは、わたしの悲しみなのだ。
これは、「やさしい」のか?
わたしは、「やさしくない」と思う。
ちなみに、すこし自分の味方をすると、人を励ましているとき、なんでもかんでも肯定するような励まし方はしていないつもりだ。
精神は合体しているけれど、だめなことはだめだと、そこは一応、線引きはできていると思う。
では、なぜ、やさしくないと思うのか。
わたしの励ましには、「持続力」がない。
「やさしい」には、「持続力」が必要だと思う。
また、目の前の人の立場になって考えてみる。
私に励まされた目の前の人は、私のことを好きになると思うし、「なにかあったらまた話を聞いてもらおう」とか「あなたがいないと生きていけない」状態になることもあるだろう。
なのに、わたしはすぐ鬱状態になり、「人と関わりたくないですごめんなさい期」に入ってしまう。
その時、目の前の人は、わたしに拒否された、と孤独を感じることになるのではないだろうか。
または、私のことを恨むような人も出てくるかもしれない。「あなたは味方だと思っていたのに」といった具合で。
一時は、目の前の人を救ったかもしれないけれど、長い目で見たら、救えていないのだ。
つまり、わたしは、「責任が取れないやさしさ(仮)」を振りまいてしまっている。
これは、全然やさしくない行動だと思う。
自分のそういった、他人との境界線がないこと、行動を先回りしてしまうこと、感情の波、躁鬱は、かなり育てられた環境が影響していると思うので、大人になった今、自分で自分の再教育をしていかなければいけない。
認知の歪みを正して、ほんとうの意味で、ひとにやさしくなりたい。